さぎ草伝説 2
「天王丸の報告」
夕闇(ゆうやみ)せまり、固く閉ざした城門を、
「火急、火急、開き給え。 殿のお側近く仕える天王丸ぞ早く開け給え」
番卒の開く扉ももどかしく、駆け込んだ天王丸は、殿への取り次ぎを、今や遅しと待っていました。
「天王丸これへ、近う寄れ」
畏(かしこ)まる天王丸を一目みて、その難題の成功を察した頼康卿は、満面に笑みを湛(たた)え、親しく言葉をかけたのです。 天王丸は、尋ねるあてなき空の下、野にくれ、山にくれ、里にくれて踏み迷い歩いた困難の一部始終もさりながら、等々力の里で若侍との不思議な出会いを、これ神仏のお助けと、衿(えり)を正して申し上げました。
聴き入った頼康卿は、もどかしく膝をすすめて、
「して、かの短冊の主は誰か、早く申せ」
殿の焦らだつ顔を見てとった天王丸は、待ってましたとばかりに、内心の笑みをこらえて、
「殿には未だお目見えなきも、既に御存じのお方、誰あろう奥沢城主大平出羽守様の愛娘「常盤姫」にてございます」と申し上げました。
それを聞いた頼康卿は、「あっ」と一瞬の驚きの後に「うむ」とばかりに唇を噛み、気を取り直して白鷺の脚に短冊を付けて離した理由を問いました。
問われた天王丸は若侍から聞きおよんだ一件を、とくとく語り始めました。
「出羽守様は、常盤姫を愛することこの上なく、姫の立ち振舞心のひとつ一つにも目をそそぎ、まるで童女をあやすが如く、片時もおそばを離れません。 姫は既に年ごろ、自由を求める心と、父の溺愛(できあい)の情との板ばさみの中に、もの憂(う)い日々を送っていたのです。
あの白鷺も、烏を求めた姫の言葉によって数多く揃えられた中の一羽ですが、篭(かご)にとじこめられ、打ちしおれた姿を見て、我が身の哀れを感じたのでしょう。 それで、七夕の夜に牽牛星(けんぎゆうせい)と織女星(しよくじよせい)の相瀬のかけ橋、つまり男女の恋の仲立ちとなると言われている鵲(かささぎ)の諺にならって、自由と恋愛の情を短冊に託(たく)し、白鷺を解(と)き放ったものと思われます」
聴き入った頼康卿は、天王丸にねぎらいの言葉と恩賞を与えて帰しました。
頼康卿は、それから十日程の間、部屋に引きこもり、憂欝(ゆううつ)な日々を送っていましたが、突然大声で、「誰かおらぬか、広戸・田中の両名を呼べ」と、命じました。 駆け付けた二人に、声をころして、
「白鷺に付けられていた短冊は、奥沢城の常盤姫の書いたものであると言う。
実は二年ほど前から、美人の誉(ほまれ)高い彼女に、恋文を送り届けていたが、何の返事もなかったのは残念なことである。 だが、この短冊を手に入れたからには、どうしても思いを遂げたい。助力せよ」と、打ち明けられた両名は、事がことだけにほとほと困り抜いて、いずれ相談の上と引き下がりました。
「常盤姫・世田谷城に入る」
頼康卿から、意外な相談を受けた、広戸・田中の両名は、よい思案(しあん)もなく困りぬいたあげく、卿の姉君に当たる 「淀(よど)の大公」のお力を借りることにしました。
この、淀の大公とは、京都の公家(くげ)「藤原の中務殿なかつかさどの)」に嫁ぎ、優雅な生活を送っていましたが、中務殿に先立たれ、世の中の無情を感じて帰り、御所の西に仮の御殿を建てて住んでいました。
淀君と呼ばれる理由は、京都を離れるとき、世にも珍しい「淀川つつじ」を贈られ、これを世田谷に移し植えたことによるものです。  話を聞いた淀殿は、早速に大奥に仕える高橋局(たかはしのつぼね)に使いを出して呼び寄せ、殿様の様子を聞き、常盤姫についても問いただしました。
問われた高橋局は、
「殿様には、このごろ何やらお心の晴れやらぬ様子に、お側に仕える一同で、心配を致しておりました。 また、お悩みになられた原因が、常盤姫様にあるとお聞きして安心致しました。 常盤姫様は、世田谷城の重要な支城である奥沢城の城主であり、お殿様にも信頼が厚く、人も知る勇猛な武将である大平出羽守様の愛娘(まなむすめ)です。
その、たぐいのないお姿は中国の美妓も及ばず、我が国にたとえるならば、衣通姫(そととうりひめ)や小野の小町にも劣らぬ美しさと、伺っております。 奥沢城へのお使いを、この私にお命じください」 と、申し上げました。
淀殿を通してのお使いを受けた出羽守は、誠にもったいない仰せ、喜んでお受けする旨を答えました。
その報告は早速、頼康卿に伝えられ、世田谷城は時ならぬ朗報に沸きました。
やがて、天文二年二月五日の良き日を選び、常盤姫を乗せた輿(こし)は華やかな行列を整え、沿道の人々の見守る中を奥沢城から世田谷城へ入りました。
このとき姫は、芳紀正に十七歳、父出羽守の命に従いやむなく頼康卿の十番目の妾として仕える身の哀れを感じてか、その美しい顔には憂(うれ)いの影がさしていました。
一方、念顧を達した頼康卿の満足は、量(はか)りしれないものがあったのです。
「鷺草と常磐懐妊のこと」
時は流れて既に四カ月、寵愛(ちょうあい)を一身に集めた常磐の方に、頼康卿は語りかけました。
「のう常盤、その方と結ばれたのもあの白鷺の縁、せめてとどめたその跡を、思い出に訪ねてみたいものよ」と、にこやかに肯(うなず)く常盤の方の顔をみて、たちまち水無月(みなずき)十五日、奥沢の里への巡行を城中に布告させました。
常盤の方の輿を交えての美々しい行列は、先ず奥沢城に入り、出迎えた出羽守一同の善美をつくした持て成しに大満足を味わいました。  帰路、目的の鷺をとどめた野原に立った頼康卿をはじめ一同の目をみはらせたものは、一面に淡雪(あわゆき)の如く乱れ咲く、名もなき草花の美しさでありました。
感嘆のあまり一茎を手にした頼康卿の目を驚かせたものは、一輪一輪の花がまるで白鷺の舞立つ姿と寸分違わぬ形だったからです。 直ちに「鷺草」の名前を卿自ら付けたことはい言うまでもありません。
姉君淀殿への土産にと、鷺草数株を家来に持たせ、上機嫌で城に帰りました。
後日、お城の北に一社「鷺の宮」を勧請(かんじょう)して、天下太平・子孫繁栄、とりわけ常盤の方の懐妊(かいにん)を心から祈ったと言うことです。
その甲斐あってか、月日は流れて二年目の春、めでたく懐妊の知らせが城中を明るくさせました。
出産に備えて重臣達に、産屋(うぶや)造りをはじめとして、役割が分担され、特に男子安産祈祷(きとう)師は勝国寺の僧が選ばれるなど、準備万端怠りなく整ったのです。
特に、二人の仲を取り持った淀殿はことのほかに喜び、歌を寄せて祝いました。
岩清水きよきながれの末ながく
          松のよわいをたもてみどり子
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