〜新奥沢線のこと3〜 鈴木 博
私の家は新奥沢駅の前にあった。 当時父親は竹職人で諏訪分(現東玉川)から尾山台付近の農家へ出張して注文を受けては、裏の竹林から切り取った竹を材料にして野菜かごを作っていた。 
関東大震災の大正12年以後東京の中心地より郊外に引っ越してくる人が多く、奥沢の山の手の方の造成地は急速に発展し、新奥沢駅前の商店も賑やかになり多忙を極めた。 年末には正月の午前中まで配達に追われるほどだったという。
今でも良く覚えているのは、新奥沢の駅で遊んでいると電車から降り立った人がまるで駅員さんに切符を渡すかのように小銭をくれたことだ。 一銭か二銭で、中には天宝銭か二銭五厘貨もあった記憶があるので、当時まだ使用されていたようだ。 そのお金で友人たちと駄菓子屋でお菓子を買って食べた記憶が残っている
新奥沢駅の次の駅は諏訪分(現東玉川)で、駅前は大きなバラ園で調布学園もあった。 諏訪分から雪が谷に行く途中に私の母の実家があり、裏庭の大木で昼寝をしていて目の前を通る電車のゴットン、ゴットンという大きな音に驚き、危うく落ちそうになったことを覚えている。
当時は交通量も少なかったから無人踏切でも事故が殆ど無かったようだが、死亡事故と言えば牛が電車にぶつかって横転し、そのまま死んでしまったという話ぐらいであった。
新奥沢線が廃線になると、新奥沢駅前も淋しくなり、駅前にあった商店も次々と現在の奥沢駅を中心とした商店街に移っていった。



新奥沢線の電車

ヒロちゃんによると、色はこんな感じだったということで、白黒写真に着色してみました。