〜新奥沢線のこと2〜 大島秀麿
こんな支線をなぜ作ったのでしょうか? 新奥沢の駅用地も線路用地も広々としていました。 線路用地が広かったため新奥沢から諏訪分の駅がよく見えました。  池上電気鉄道の年表を見ますと大崎広小路と五反田の間の高架線の難工事が終わって五反田、蒲田間の全線が開通したのが、昭和3年6月です。 
その僅か4ヶ月後の昭和3年10月に雪ヶ谷、新奥沢間の支線を開通させているのです。池上電気鉄道は大きな計画を立てていたため、急いでいました。 新奥沢線は雪ヶ谷国分寺(JR中央線国分寺)間の免許申請の第一歩として昭和3年3月免許申請、4月認可、8月着工、そして10月営業開始と僅か半年で電車が走るという既成事実を作ったのです。
平坦な農地のため工事も楽で、諏訪分(現東玉川)の耕地整理組合の積極的な全面協力で短期間で開業できたのです。 国分寺線の第一歩として複線の線路用地にしていたのです。  ところが目黒蒲田電鉄が素早く大岡山、二子玉川間新線計画を立て、鉄道用地を確保し、国分寺線計画の胴体部分を切り、通せんぼをして仕舞ったのです。 
その後、昭和2年、3年と東横目蒲両電鉄の代表権を持った五島慶太氏が、池上電鉄の代表権も手中にして、昭和8年11月新奥沢線の営業不振と国分寺線免許失効を理由に廃止申請を出し、昭和10年11月7年間の歴史を閉じたのです。
阪急電鉄の小林一三氏をアドバイザーとした五島慶太氏の営業戦略が次々と開花し凄腕の評価と強盗慶太の異名が冴えた時代の真っただ中であったのです。 雪ヶ谷と国分寺間21キロの私鉄完成を夢見て、池上電鉄も諏訪分耕地整理組合も動いていたのです。 
諏訪分の駅の出来る前後に駅の近くに十軒近い商店が建ちましたが、線路が消える頃から、お店もだんだんと無くなっていきました。 奥沢小学校の仲良しで級長の酒屋の息子前沢君も溝の口に移っていきました。 5年生の終わり頃のことでした。 肥溜の匂いが風に乗って、何処にでも感じられた玉川村諏訪分でしたが、肥溜が土に埋められたように新奥沢線も土の中に消えて仕舞いました。 
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