〜新奥沢線のこと〜 大島秀麿 
新奥沢線の開業は昭和3年の10月です。 私が4歳の時です。 私の家は新奥沢駅のすぐ前(東玉川2−39)にあったのですが、菜園になっていた裏庭の方が駅に向いていたためもあって、小さかったので工事をしていた記憶がありません。 すぐ転居してしまったため、強く印象に残っているのは戻ってきた小学一年生の夏休みからです。 昭和6年のことです。 
道の向かいは原っぱで、原っぱの向こうは新奥沢駅のプラットホームで、柵もなく小さな駅舎があったのですが駅員は居ませんでした。 切符は車掌さんから買いました。 大人が雪ヶ谷まで片道3銭、往復5銭であったことを覚えています。 駅舎の周りも線路用地も広々としていて原っぱから駅前広場にかけては近所の子供たちの遊びの広場でした。
米屋のトモちゃん、茶碗屋のヒロちゃんは八幡小学校の同級生で、天気のよい日は夕方まで広場で駆け回っていました。  暖かいホームの日向で端にしゃがんで運転手や車掌さんが煙草をくゆらしながらボンヤリと遊ぶ子供たちを眺めたりしていました。 駅舎は小さなもので、発車時間を待つ乗務員の休息の場所でした。


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仲良しになった運転手さんに何度もただで雪ヶ谷まで電車に乗せてもらいました。 運転手さんの隣に立って遠くにクヌギ林などが見える広々した畑の中を一直線に少し横揺れしながら雪ヶ谷まで走りました。 速度は早くても20キロくらいでしょうか。 雪ヶ谷まで5分位でした。
畑の中でお百姓さんが、腰を伸ばして電車を見ている景色もありました。 肥桶を重そうに担いで畑道を行くのも見ました。  駅でなくてもお百姓さんが手を挙げると電車を止めて乗せたり、運転手さんがお礼に取れたての野菜をもらったりするような大らかな時代でした。
肥桶を重そうに担いで畑道を行くのも見ました。 諏訪分のずっーと先まで一直線で、雪ヶ谷の少し手前から左に大きくカーブをし、中原街道の踏切を抜けて駅に入っていきました。 駅の手前で運転手さんが子供たちにしゃがめしゃがめと合図します。 子供たちは駅員さんに見られないようにしゃがんで、小さくなって次の折り返し発車時間を待つのです。
中原街道のその頃は自動車はほとんど通りません。 オート三輪が少しあったと思います。 牛馬車、人が引く荷車、自転車、歩く人といった具合です。 諏訪分の駅は調布女学校の東裏でした。 女子生徒が数十人通学のため乗り降りするのが中心で女学校専用駅みたいでした。 新奥沢駅からお客が十人も乗るなんていうことは殆ど無かったでしょう。
 一両の電車で朝夕は3往復、昼は2往復、夜は10時頃で終電ではなかったでしょうか。 電車の色は濃緑色だったと思います。 単線で今から見ればおもちゃのような電車が新奥沢と雪ヶ谷の間を行ったり来たりしていたのです。 電車が新奥沢に着くと、車掌さんが後部の窓から仰向けに身を乗り出して、ロープを引っ張ってポールを下ろし、車体後部のフックにロープを巻き付け、発車の前になると今度はロープをほどいてポールを架線にセットするのです。 
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