奥沢における稲荷信仰
朱の鳥居と狐、商売の神様としても親しまれてきた稲荷社ですが、もともとは名前に稲が付くように農耕神として祀られていたものでした。 中世から近世にかけての工業の起こり、商業の発展といった社会の変化により農耕神から工業の神、商売の神と広がっていきました。
商売繁盛の神に発展した稲荷信仰は、江戸時代には各同業社組合が稲荷講を結び、屋敷神として人気が出て地域や個人の家などで祀るようになりました。 特に関東地方は屋敷神として祀られることが多く、東京から離れるほど2月初午を稲荷の祭日とするところが少なくなっていることから、東京/江戸を媒介にしてもたらされた信仰であるともいわれています。
奥沢での稲荷講
奥沢での稲荷講は、カミ、ナカ、シモのズシ単位で行うのが基本ですが、ズシ単位で行われる稲荷講とは別に字(あざ)単位又はイッカ単位で講を行うところもあります。  たとえばサイトー(セイト)稲荷のように仏山という字単位で祀っている稲荷があると、ズシ単位の稲荷講には参加しないといいます。
カミ、ナカ、シモのズシ単位とは
丸山稲荷の丸山も字(あざ)に見ることができます。 奥沢の字は下記のようになっていました。 (字とは近世、土地の小名。 明治時代市町村合併以降は、おおむね近世の村を大字、それ以下の小名を小字と呼ぶようになった。 普通は小字を単に字という。 (国語大辞典小学館 1988)
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ズシ単位で行われる稲荷講は、初午の日に当番の宿の家に集まって行われました。 稲荷講のようにズシ単位で大人数が集まる講では、家の広さの関係で宿にできない家もあるので、講員は5軒くらいのグループ毎に当番をやり、この5軒の中で都合がよく又十分な広い家が宿に選ばれました。 字単位ではこのように宿を決めることはしませんでした。
初午の日の朝、宿の当番をする家では同じズシにある屋敷神として祀られている稲荷様を持つ家を回って、ツト(苞)〜わらなどを束ねて、その中に食品を包んだもの〜に入れた油揚げを供えました。 宿ではアカノゴハン(赤飯)を炊いたり、煮物を作ったりしてご馳走しました。 食事が終わると、世間話をしたり、テワルサ(賭ゲーム)をして泊まり込む人もいました。 稲荷講は第二次大戦中に行われなくなり、戦後解散したということです。
奥沢では今でもウチイナリと呼ばれる稲荷を屋敷神として祀っている家も多くあります。 中には屋敷神をお祀りしていたお年寄りが亡くなって、奥沢神社に引き取ってほしいと頼みに来る家もあったり、祀り手を失った稲荷を親交会商店街の人々が中心にお祀りしたりと、現在では奥沢でも稲荷は色々な様相を見せています。
世田谷区民族調査第5次報告 「奥沢」より
          (奥沢における稲荷講の項)